昨日からのつづきです。

父は、胃瘻は造ったが胃瘻も滴下するのじゃ長時間上体を起こしておく必要があり、やはり血圧が下がってしまう為に半固形化でのシリンジによる注入となった。
今でこそ半固形化は普通に行われているが、当時はまだ珍しかった。

自ら納得して決断した事だからだったのか、点滴とは違い胃にゼリー状の栄養剤がはいり満腹感があるからなのか、父はその日から空腹感を訴える事も無く何かを食べたいとも言わなくなった。
その時の心境を父に直接聞いたことも無ければ、父も胃瘻に関して一言も口にした事は無かったが、少なくとも経管栄養を始める前は訴えていた空腹感は解消されていたと解釈している。

認知症患者のターミナルケア。認知症患者だけでなく重篤な病状や疾患がなくとも、老衰により死期に面した高齢者に対し言われる事の尊厳死なるもの。
尊厳死をwikipediaで見てみると『人間が人間としての尊厳を保って死に臨むこと』とある。
その手段のひとつとして、過剰な延命や無意味な延命措置を拒否する事なのではないのだろうか。
このご時世、生きて行く事の人間の尊厳は保たれているとは言い難いこの世の中で、死ぬときばかり尊厳を掲げられても???ではないのだろうか。

少なくとも2006年の夏、空腹という苦痛な状況で餓死する事は、父にとって尊厳ある死にはならなかったと思うのだ。
父自身もそう感じたからこそ、その時まで手術と名のつくものは断固拒否し続けていたのにも関わらず、自ら胃瘻造設にゴーサインを出したのだろう。

経管栄養になってからは水分、栄養は充分に摂取出来るので顔色も良くなり何より覚醒率が高くなった事が嬉しかった。
飲み辛かった薬も胃瘻から楽々入れれる事も、介護する側にも大助かりだった。
ただ胃瘻造設までこぎ着ける事が出来たのは、父が意思表示が出来た事が救いだったと思う。

認知症の末期になると意思表示が難しくなる。

その時はどうしたら良いのか?その為のガイドラインを作ろうという事なのだろうが、はたして意思表示は出来なくとも本当に生き続ける事を望んでいないのだろうか?


これは夫の祖母の話だが、祖母が82歳の時に私達は結婚をして祖母との同居が始まった。
息子である夫の父が他界してから私達が結婚するまでの2年間を祖母は一人で生活していたのだから、同居した時は明治生まれの芯の強い凛とした老女だった。
オムツになってまで生きたくはないというのが祖母の口癖だった。
しかしそれから5年後に祖母は歩けなくなりオムツ生活が始まった。
が、、、
あれだけ下の世話を他人にしてもらうくらいなら死んだ方が良いと言っていたその口で、
ここまで(87歳)生きたんだから
100歳まで生きる

と…私に宣言したのだから。。。


人間は考えがコロコロと変わる生き物なのだと私は思う。
残念な事に祖母は志半ばの90歳で最期は私に(夫も誰も間に合わなかった)送られて旅立って行ったのだ。
長い事人生を歩んで来た人の心の移り変わりも、個々の死生観をも尊重して死を考える事が尊厳死と云うのではないのだろうか。
そう言う厳かなものなのじゃないのかな?尊厳死って…
それにガイドラインを作るなんて事が許されるのだろうか?

話がちょっと横道にそれちゃったが、父にとって胃瘻を造った事は、間違いではなかったと私は信じている。


確かに昨年の夏に父は一度弱音を吐いた事があったのだが、その話は次回にします。

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旅立ちを見送ったのは父だけじゃなかったんだな〜
ばあちゃん、忘れててゴメ〜ン

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